近代化遺産を巡る-山陽小野田市前編
全行程22.1Km
山陽小野田市の旧小野田市域の近代化遺産を巡ります。今回は焼野海岸の駐車場に車を停めさせてもらいました。今日巡る近代化遺産はもっと北側の小野田港から有帆川の間に集中していますが、焼野海岸付近は自転車を漕ぐにも気持ちのよいコースなので、ここからスタートします。
焼野海岸駐車場から県道354号を海岸沿いに北上します。現時点では海沿いの歩道は工事中で途切れていましたが、これが完成すると周防灘の景色を楽しみながら安全快適に走れるようになるでしょう。
焼野海岸から刈屋漁港を過ぎるまでは潮の香りを楽しみつつ走れますが、西の浜交差点の手前から町並みは普通の市街地に変わります。
線路沿いの道をしばらく走り、JR小野田線の小野田港駅を通過してセメント町に入ります。南小野田駅手前に太平洋セメント小野田工場の入り口がありますので、正門に向けて左折すると、正面に白く塗られたモダンな意匠の建築物が現れ目を引きます。これが太平洋セメント(旧小野田セメント)事務所です。

焼野海岸から出発
小野田刈屋漁港を通過
 太平洋セメント株式会社は、小野田セメントと秩父セメントが合併して出来た秩父小野田セメントと、日本セメントが合併して出来た、セメント業界最大手の会社です。この建物は小野田セメント時代の昭和3年(1928)建設の鉄筋コンクリート構造(RC造)で、もちろん自前のセメントが使用されました。
小野田セメントは日本初の民営セメント会社で、廃藩置県で困窮した士族の授産を目的として、旧萩藩士笠井順八によって明治14年(1881)に設立されました。同じく旧藩士を救う目的で設立された、岩国の義済堂機械製糸工場(現株式会社義済堂)とともに、山口県の近代的工業の始まりとなりました。
よくメンテナンスされている事をうかがわせる白く美しい建物は、この時期に建築された山口県の他の近代化遺産にも見られる直線を基調とした意匠で、ドイツの表現主義の影響を受けているようにも思われます。
正面中央部の、切妻屋根に向かって伸びている放物線状の柱の装飾や、玄関の車寄せの曲線の意匠、円形の太い柱などが直線基調の建物に変化を与えています。
この建物は公開されていませんので内部には入れませんでしたが、「山口県の近代化遺産」によりますと、「大正末期の自由でロマンチックな造形が各所にあふれている。」と言う事です。建物正面の破風部分にある紋章は、小野田セメントの「小」をデザインしたものでしょうか。
なおこの建物は平成19年に経済産業省により、近代産業化遺産に認定されました。
太平洋セメント(旧小野田セメント)小野田工場事務所
 旧小野田セメント徳利窯は一般公開されていて、太平洋セメント正門前に案内図が設置されていました。順路途中ではA4サイズの紙4枚に渡る詳しい資料が配布されており、展示場周辺の整備の行き届き具合といい、太平洋セメントさんの、この近代化遺産に対する思い入れが十分に伝わってきました。
この徳利窯は、山口県の有形文化財(史跡)と国の重要文化財(建造物)に指定されていて、県内の近代化遺産のなかでも全国的に有名なものの一つです。
この徳利の形をした窯は、明治16年(1883)に設置された4基のうちの一つで、125000個の煉瓦で造られています。当初はこの窯は明治26年に築造された7号窯だとされていましたが、平成12-15年にかけて行われた補修時の調査で、創業時に設置された窯を明治25年以降に改造大型化したものである事が判明しました。いただいた資料によると、国内に現存する唯一・最古のセメント焼成窯であり、大変貴重な存在という事です。
平成12-15年にかけて行われた補修により窯の下半分が覆屋で隠されてしまいましたが、これはもともとこの窯が屋根から突き出た状態で操業されていた為、それに似せて復元されたものです。最盛期には12基の窯が稼働していましたが、大正2年に廃止が決定され、1基だけが残されました。
この徳利窯は、窯の周囲に展示されている蒸気機関や製樽機とともに、経済産業省により近代産業化遺産にも認定されています。

次は太平洋セメントを出て小野田の町の中に入って行きます。

小野田セメント(現太平洋セメント)徳利窯と製造関連遺産
 太平洋セメント正門前から左に出て、南小野田駅前を通過するとすぐに三叉路に突き当たりますので右折します。資料では、中央町の公園通り交差点付近に、近代化遺産に指定されている旧益田印刷所があるはずでしたが、残念ながら見つける事ができませんでした。すでに取り壊されてしまったのかもしれません。
旧益田印刷所を捜す為にこの辺りの裏通りを走り回りましたが、古風なお風呂屋さんや商店がまだ何軒か生き残っていました。町並み散策が好きな人は、県道から一本か二本入って、旧小野田セメントの門前町の繁栄のなごりを残した旧道を走ってみても良いでしょう。
公園通り交差点から県道223号を330mほど北上し、住吉本町にある交差点を右折します。この通りは車なら一方通行逆行ですが、自転車なので問題なしです。少し走ると、建築年代は不明ですが、妻側の破風部分の日の丸が目を引く看板建築が現れました。看板建築とは、主に木造二階建ての店舗併用住宅の正面二階部分をモルタルや銅板で装飾した商業建築で、モダンな洋風建築に見せかけたものです。この建物は一階部分は料理屋風に改築されていましたが、元は何の店舗だったのかが気になります。
思わぬ収穫にほくほくしつつ通りを進みますと、突き当たりにお目当ての山口銀行小野田支店倉庫が現れます。
住吉本町の看板建築
山口銀行小野田支店の前身の旧小野田銀行は明治32年(1899)に開業し、小野田セメント創業者の笠井順八が初代頭取に就きました。資料によると、頭取の他にも小野田銀行の役員には小野田セメントの関係者が選任されており、明治33年の小野田セメントの借入金の約2割が小野田銀行からの融資であった事などから、同行は小野田セメントの機関銀行として性格を有していたと考えられます。
大正12年(1923)に百十銀行と合併して小野田支店となり、昭和19年(1944)に山口銀行小野田支店となった後、現在は小野田支店の倉庫として使用されています。
大正初期に新店舗として建設されたこの建物は、当時の銀行建築としては珍しいコンクリートブロック造ですが、これは後で訪れる太平洋セメント(旧小野田セメント)山手倶楽部と同じコンクリートブロックが使用されており、小野田セメントとの深いつながりを物語っています。
銀行の本店として建てられたにしては小規模ながら、小野田セメント製のコンクリートブロックで装飾された外壁や、4本のトスカーナ式の円柱で支えられた神殿を思わせる正面ポーチは、セメントの町で生まれた銀行と大正初期の古典的な銀行建築の両方の特徴を兼ね備えています。
山口銀行小野田支店倉庫(旧小野田銀行)
旧小野田銀行前から、県道223号と国道190号にはさまれた道を日産化学工業(株)小野田工場をめざして北上します。
太平洋セメント(旧小野田セメント)の門前町として成立したセメント町と、日産化学工業(旧日本舎密製造)の門前町として成立した硫酸町の間をつなぐように発展してきた通りは、主役の座を県道223号に譲り、現在では静かな裏通りといった風情です。所々に平入り造りの陶器・茶道具屋さんや旅館などが出てきて、落ち着いた雰囲気を楽しみながら走れます。
県道223号に合流する少し手前に、赤煉瓦で組まれたレトロな蔵が建っていました。煉瓦の積み方は近代化遺産でよく見られるイギリス積みで、年月を経て黒ずんだ煉瓦や軒下に施されたデンティル(歯状の装飾)がただ者でない雰囲気を漂わせています。
次の目的地をめざして県道223号に合流して右折しますが、反対に左折して少し走ると、山陽小野田市立中央図書館や山陽小野田歴史民俗資料館がありますので、旧小野田セメント徳利窯やこれから行く旦の皿山などの情報を仕入れる事が出来ます。
県道223号と国道190号に挟まれた旧道と赤煉瓦の倉庫
 日産化学工業(株)小野田工場の正門前をすぎて少し走ると、道沿いに赤煉瓦の古い倉庫が二棟見えてきます。これがお目当ての日産化学工業(株)(旧日本舎密製造)小野田工場の赤煉瓦倉庫です。
日産化学工業(株)小野田工場は、長府藩士で坂本龍馬とも親交があった豊永長吉が明治22年(1889)に設立した日本舎密製造会社が前身です。舎密(せいみ)は、オランダ語で化学を意味するChemie(シェミ)が語源で、硫酸、塩酸、芒硝(ぼうしょう)、ソーダなどの化学薬品を製造していました。
設立当初から本社は東京に置かれましたが、山口県は長州藩時代から原料となる塩の生産が盛んで、宇部・小野田周辺では燃料の石炭も採れた上に、旧小野田セメント創業者の笠井順八らの熱心な誘致もありこの地に工場が建設されました。
赤煉瓦造の二棟の倉庫は明治24年(1891)の建設で、原料および製品を貯蔵していました。現存する工業関係の建物としては県内でもっとも古いとされています。煉瓦はイギリス積みですが、屋根はスレート波板で葺き替えられ、円弧アーチの窓もすべて塞がれており、かなり老朽化が進んでいる模様です。日産化学工業(株)小野田工場では、他にも本事務所や塩酸吸収塔など近代化遺産に指定されています。
赤煉瓦倉庫から100mほど走り、有帆川に架かる小野田橋を渡ります。橋を渡りきった所で左折して有帆川河口方面に走ります。
日産化学工業(株)小野田工場倉庫