近代化遺産を巡る-山陽小野田市後編
全行程22.1Km
 有帆川沿いの道を、左側に小規模な造船所や工業所、右側に開作地に広がった田園地帯を見ながら河口方面に走ります。この辺りは高泊開作と呼ばれ、萩藩の直営事業として400ヘクタール程の土地が造成され、寛文八年(1668)に完成しました。一時期に造成された藩営開作地としては最大規模だったそうです。
開作地の遺構でしょうか、高泊湾に突き出した船溜まりの先で釣り人が竿を振っている風景を見ながら走っていると、正面突き当たり付近の池のような所に石組みの小さな水門があります。これが国指定史跡周防灘干拓遺跡、高泊開作浜五挺唐樋です。
唐樋とは潮の干満の作用を利用して招き戸を自動開閉するしくみの樋門の事をいいます。これは江戸時代の遺跡なので近代化遺産ではありませんが、平成元年に新たに樋門が建設されるまでの300年以上にわたり機能してきた、当時の土木技術の粋を集めた構造物です。

当嶋八幡宮の鳥居と高泊開作浜五挺唐樋
 

高泊開作浜五挺唐樋の横の鳥居をくぐり石段を上ると、当嶋八幡宮があります。ここに近代化遺産に指定されている当嶋神社神輿庫があります。
当嶋八幡宮は、社伝によると仁和年代(885年頃)に宇佐八幡宮から勧請したという事で、高泊開作が造成される前からあった古い集落の鎮守でした。元は社殿は南に向いて建っていましたが、元文二年(1737)に再建された時に高泊開作を通る横土手の道に向けて東向きに建て替えられました。
社殿の横に建っている赤煉瓦造りの倉庫がお目当ての神輿庫です。煉瓦の積み方は近代化遺産ではおなじみの、煉瓦の長い面と短い面を一段ごと交互に積んだイギリス積みで、鋸状の装飾が施されたコーニス(軒蛇腹)の上に和風の赤瓦の屋根が乗る和洋折衷のデザインです。この社殿と共通の赤瓦はまだ真新しく、最近吹き替えられたみたいです。平側に「大正七年十月奉献西村金作」と刻まれた石盤が埋め込まれていました。西村金作さんはこの近くで製陶所を開いていた人です。この倉庫が後に近代化遺産に指定され、100年後にこうして紹介されるとは思っても見なかったでしょう。
当嶋八幡宮を出て、再び小野田橋を目指します。

当嶋八幡宮神輿庫
 今来た道を戻るのは面白くないので、当嶋八幡宮を左に出てレトロな当島橋を渡ります。市民病院前を通り、旭町交差点を右折して少し走ると小野田橋まで戻ります。
小野田橋を渡った所で左折し目出地区に入り、有帆川沿いの道をさかのぼります。JR小野田線目出駅をすぎて500mほど走った所で川沿いの道を離れ旦の集落の中に入ると、すぐに旦西自治会館方面に登って行くゆるい坂道があるので右折します。すると左側に円形の陶板を並べた高い垣が目に飛び込んできますが、これが近代化遺産に指定されている硫酸瓶垣です。陶板の様に見えた物は実は硫酸瓶の底の部分で、焼き傷があり売り物にならない硫酸瓶を積み上げて垣にしています。旦地区では規模の大小はありますが、あちらこちらでこの様な光景を見る事ができます。
この地の陶業は、天保年間に富田(周南市新南陽富田地区)から移ってきた陶工甚吉が登り窯を開いたのが始まりで、皿等の台所用品を焼いた事から皿山と言う地名が生まれました。
明治になり、旦の陶器が寒気に強かった事から北海道の開拓民に好評で、次第に生産量が増えて行きました。北海道の開拓民というと、会津の人達も大勢いたはずですが、長州で焼かれた陶器だった事を知っていたのか気になります。
日本舎密製造会社(現日産化学工業小野田工場)が創業を開始すると、耐酸性の強いこの地の粘土を使った硫酸瓶の生産も開始され、硫酸の生産量が増えるにともない製陶業も飛躍的に発展しました。昭和24年には26工場を数え、30数基の煙突が林立していたと言う事です。
旦の皿山の硫酸瓶垣
 硫酸瓶垣から少し登った所に、斜面を這うように古い窯が並んでいます。これが山陽小野田市指定史跡で近代化遺産でもある旧江本製陶所登り窯、通称旦の登り窯です。
明治23年(1890)頃にブロック状の大型の煉瓦を使って建てられ、とんばりと呼ばれる窯10袋と火力調整用のふかせ1袋、煙突1基で構成されています。
登り窯は荒れるに任せた状態で、補修もされずに放置されていました。窯の中にはすでに崩れている物もあり、熱の為に黒光りした内部には硫酸瓶の残骸が並べられていました。
往時は窯の周りに様々な工程をこなす広い作業所が広がっていましたが、現在は静かな住宅地の中に窯だけがぽつんと残されています。
最初にこの地で開いた甚吉の窯は3袋の登り窯で、この旧江本製陶所登り窯の焚き口付近のあったとされています。
戦後、硫酸瓶はステンレスやポリエチレン製の容器に取って替わられ、旦地区の製陶業は衰退してしまいましたが、この登り窯の遺構や、至る所に築かれた瓶垣が往時の繁栄を今に伝えています。
旧江本製陶所登り窯
 旧江本製陶所登り窯から次は、千代町にある伊藤医院をめざします。伊藤医院は先程訪れた山口銀行小野田支店倉庫の近くにありますので、今来た道を戻るのが近道ですが、せっかくですから少し遠回りをしてサイクリングを楽しむ事にします。
一旦有帆川方面に戻り旦東地区に入ります。よく注意して見ると、道沿いの民家の庭や玄関先に硫酸瓶が普通に飾られていて、この地区で古くから親しまれて来た存在である事がわかります。
旦東自治会館前を通りJR小野田線を渡りますが、この辺りでもちょっと横道に入ると小ぶりな硫酸瓶垣に出会えます。整然と積まれた物から、雑に積み上げられて破損した物まで、町並みの中に自然にとけ込んでいますので、あちこち走り回って捜してみるのも面白いでしょう。
旦地区をはなれ、折りたたみ自転車でも十分越えられる静かな小さい峠を越えます。峠を下って行くと小野田霊園に出ますので、右折して国道190号方面に向かいます。国道190号とJR小野田線が交差する所で国道190号の下をくぐり、少し坂を下った所で左折し国道から一本西側の道に入ります。
旦の皿山の素朴な瓶垣
 静かな住宅街の中を通る道を南下します。600mほど走り鉤の手状に曲がった道の角に建っている洋館が、設計野村伸氏、大正14年(1925)建設、木造2階建ての伊藤医院で、見た所現役の様です。
一階部は、一般的な洋館の外壁である下見板張りペンキ塗り仕上げで、縦長の上げ下げ窓との組み合わせです。ポーチの上にサンルームと見られる部屋が張り出しているのが印象的です。
二階部分を見ると、柱や梁の骨組みを露出させたハーフティンバー形式の外壁と引き違い窓の組み合わせで一階と様式を変えてあり、開拓時代のアメリカ建築を模していると思われます。
資料によると、当時の洋風の病院の内部は一階は洋式の医院で二階は純和風の居室になっていた、と言う事ですがこの医院もそうだったのかもしれません。
この病院を建てた先生の人柄でしょうか、明治・大正期の病院建築にありがちな奇をてらったデザインや過度な装飾もなく、当時の洋風病院としてはどちらかと言うとおとなしい印象を受けます。
伊藤医院
伊藤医院から走り出すと、すぐに道の向こうに背の高い洋館が見えてきます。正門は閉ざされていて中をのぞく事が出来ませんでしたので、撮影ポイントを捜すのが結構大変でした。この江戸川乱歩の小説に出てきそうな洋館は、大正3年(1914)建築、コンクリートブロック造2階建ての旧小野田セメント山手倶楽部です。
この建物は、旧小野田セメント第4代社長笠井真三氏がヨーロッパ留学から帰国する際に持ち帰った型枠で造られたコンクリートブロックが使われており、先ほどの山口銀行小野田支店倉庫(旧小野田銀行)にも同じブロックが使われています。
ドーマー窓のマンサード屋根を持つ華麗な洋館は、社交クラブとして建てられ、出入りに羽織袴の正装が義務づけられていた時期もあったそうです。
旧小野田セメント小野田工場事務所もそうでしたが、2階建てながら3階建てぐらいの高さがあり、内部は高い天井をもつ贅沢な造りになっています。内装施工は地元大工の野村伸氏となっていますが、伊藤医院の設計者の野村伸氏と同一人物でしょうか。
同じ敷地内にある山手倶楽部別館は、笠井真三社長の邸宅でした。四本の柱を持つポーチやコンクリートブロックの外壁などは本館と共通しているものの、和瓦の屋根や板塀など和洋折衷の意匠となっています。
旧小野田セメント山手倶楽部
旧小野田セメント山手倶楽部別館
山手倶楽部正門
 山手倶楽部から引き続き南下します。しばらくは近代化遺産は出てきませんのでサイクリングを楽しみます。この閑静な住宅街を通るごく普通の道は「刈屋みち」と呼ばれた古道で、宇部市舟木から刈屋漁港へ通じていました。この道を通って刈谷漁港近くの竜王町まで走り、刈屋みちから分かれます。
赤崎地区を抜けてのどかな田園風景の中を走り、JR小野田線を横切り県道354号大須恵交差点から本山地区に入ります。
すると、静かな新興住宅地の一角に有刺鉄線付きの柵に厳重に囲まれたオブジェが現れます。これが大正6年(1917)建設、鉄筋コンクリート造の旧本山鉱業所斜坑坑口で、山陽小野田市指定史跡です。
宇部・小野田地域は、江戸時代から石炭の町として知られていました。江戸後期、県内の塩田の燃料として石炭の需要が伸び、明治期に入り旧小野田セメントや旧日本舎密製造などの近代工業の発展にともない最盛期を迎えました。この坑口は昭和38年(1963)に閉鎖されるまで使用されました。
現在は塞がれていますが、往時はここから沖合約3km、最新部約200mまで坑道が延びていて、石炭を運搬するトロッコが出入りしていました。本山炭鉱は昭和15年(1940)には坑夫数約1700名を数える大規模な炭鉱で、炭鉱周辺には炭鉱住宅が立ち並び映画館や診療所などもあったという事ですが、いまではその面影をまったくとどめていません。この建造物は、小野田がかつて石炭産業で栄えた事を示す貴重な遺構です。
ここから海岸沿いの道を走れば、出発点の焼野海岸はすぐそこです。
旧本山炭鉱斜坑坑口