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山陽道
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下関市吉田市(いち)-下関市小月市(いち)
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約8.0Km
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吉田市(いち)
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蓮台寺峠から吉田を目指して良く整備された道を下って行きます。吉田の町に入る手前で左に分かれて行く道がありますが、これは県道260号に合流する道で、埴生口を経て埴生まで通じています。現在では吉田と福田の間はこの道を車で走る事になりますので、蓮台寺峠越えの道はほとんど使われる事はありません。
少し行くと短い橋の手前に庚申塚と猿田彦の碑が並んで立っていました。これも往還探索では見なれた光景です。庚申塚を過ぎると吉田の集落の中に入って行きます。吉田市(いち)は赤間関(下関)と萩とを結ぶ赤間関街道と山陽道との追分けにできた宿場町として栄えました。トタン屋根の古い家や白壁の旧家が建ち宿場町の面影を一部に残す通りを行くと、突き当たりが三叉路になっていて角に道標がニ本立っています。片方は西国街道時代から立っている旧い道標で、もう一本は近年立てられたものです。この突き当たりに恵美須堂があり、この西側に高札場があったとされています。往還は突き当たりを左折して進みます。
恵美須社から少し走ると県道260号との交差点に出ます。この交差点をを左折した所に一里塚跡がありました。しかし「歴史の道調査報告書-山陽道」では交差点を直進して少し行った所に一里塚があったとされており、約250年前の古地図にもその様に描かれています。
往還は県道260号との交差点を渡って直進しますが、吉田の町には維新の志士高杉晋作の墓がありますので、一旦往還を離れて交差点を左折し県道260号を南下します。少し走り吉田小学校の手前を左に入ると吉田の御茶屋と勘場跡があります。幕末には奇兵隊の屯所としても使用されましたが、白土の練塀はほどんど剥げ落ち、敷地内の建物も朽ち果てかかっていました。保存されていると言うよりは、ただ放置されているといった感じです。再び東行庵を目指して県道260号を南下します。
300mほど走ると高杉晋作の菩提をとむらう東行庵があります。ここだけが大型バスが停まり、沢山の人出があり、観光地化していました。道の脇を美しい紅葉が彩る小道を登って行くと「東行墓」と刻まれた高杉晋作の墓がありました。ここには老若男女を問わず訪れる人が後を絶たず、彼の今尚衰えぬ人気の程が伺えます。
吉田は幕末の慶応元年に高杉晋作が創設した奇兵隊の本拠地になり、奇兵隊は幕府軍との戦いに備えて日々厳しい調練を重ねました。第二次長州征伐(四境戦争)の小倉口の戦いではここから出陣し、見事な勝利を納めました。現在では県内各地に散らばる奇兵隊士の墓を集める運動も行なわれ、維新と深い関わりを持った町です。
吉田名物?晋作うどんを食べた後、再び往還と県道260号との交差点に戻ります。この交差点付近の吉田郵便局が建っている所に吉田の駅があったとされていて、人足五十八人、馬十五疋が用意されていました。吉田市(いち)は道標のある三叉路から県道260号との交差点あたりまでで、交差点を過ぎると、木屋川までは普通の田舎町の通りといった感じです。 |
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突き当たりが恵比須社・高札場跡です
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恵比須社の三叉路にある道標
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吉田一里塚跡
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吉田勘場・御茶屋跡
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高杉晋作墓
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吉田市(いち)の町並み
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吉田大橋-木屋川沿い
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吉田市(いち)の集落を抜けて木屋川の土手の道を走り、県道33号に合流して吉田大橋を渡ります。現在の吉田大橋は昭和44年に架け替えられましたが、元はもう少し下手にありました。昭和5年に鉄筋コンクリート製の橋になるまでは木の橋が架かっていましたが、山陽道の時代は冬と春は木橋を架けて渡り、夏と秋は増水を恐れて橋を外して船で渡っていました。
吉田大橋を渡ると肥田地区に入ります。山陽道は木屋川の堤の道を南西方向に下って行きますが、現在では県道33号が開通し、往時の面影は影も形もなくなってしまいました。山裾に広がる田園風景を見下ろしながら県道33号を南下して木屋地区に入ります。資料では木屋地区には御米蔵があり、御米蔵にならんで木屋川口御番所があったとされていますが、見落としてしまったのか、それらしき場所は分りませんでした。
山陽新幹線の下をくぐる少し手前の右側に地蔵堂が建っていて、山陽道はそこから幅1m余りの細い地道を登って行きます。坂を登った所に民家が建っていて、そこにお住まいの人に「この道を通る人はほどんどいない。」と珍しがられました。山の斜面を回り込む様に細い道を進むと、道の山手の斜面に木屋川を見下ろす様に石仏が鎮座していました。この石仏は「地下上申」にも僧侶の墓として記載されていると言う事です。この石仏から少し行くと僅かな平地があり、ここが資料にある木屋の駕篭立場の跡と思われます。この辺りから崖沿いの道は斜面の改修工事中でさらに細くなっていて、うっかりすると数メートル下まで滑り落ちそうな道を自転車を押して歩きました。駕篭立場を過ぎて少し行くと道は次第に下り始め、新幹線の高架の手前で県道に戻ります。
新幹線を過ぎた所で山陽道は再び右に分かれていますが、現在では道は小月製鋼所の敷地の中を通っている為に通行出来ませんでしたので、しかたなく戻って県道を走りました。新幹線を過ぎてから600m程走ると山陽道は県道33号を右に離れ、小月の町に入って行きます。 |
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以前吉田の橋があったと思われる所
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木屋川沿いに南下します
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地蔵堂の脇から坂道を登ります
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斜面に立っている石仏
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上木屋の駕篭立場らしき場所
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小月手前で右に入ります
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小月市(いち)
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県道33号から右に分かれ、小月の町の中に入って行きます。ホテイアオイが一面に広がった堤を左に見ながら山裾の道を西に走ります。堤を過ぎて少し走ると、小月小学校の北側の辺りに「旧国道」と刻まれた石柱が立っていました。この幅4mに充たない旧街道がいつの頃まで国道であったかは分りませんが、この平成2年に立てられた石柱もあと100年も経てば、旧山陽道の辻々に立っている道標みたいに風格が出てくるのでしょうか。
小月小学校の北側を過ぎて少し走った所で右折すると小月八幡宮の前に出ます。この道は今では町の中を縫う様に走っていますが、往時はこの八幡宮までは民家も無い寂しい道だったと言う事です。山陽道は八幡宮の門前で左に曲がり国道491号を越えます。国道を越えて少し行くと小月八幡宮の御旅所の中に巨大な自然石の庚申塔が立っています。説明書きによると、“日本一とも言うべき”庚申塔で、高さ2.63m、刻まれた文字の中には米2升が軽く入るそうです。この庚申塚を過ぎて小川を渡った辺りから小月市(いち)に入ります。
小月市(いち)に入ると山陽道は小月本町のバス道に突き当ります。この三叉路の西側に高札場があったとされていますが、それを示すものはありませんでした。これまで走って来た防府市や宇部市、小野田市などと比較して、山陽町以西は高札場跡や駕篭立場跡などの、今ではその痕跡を留めていない史跡の表示が少ない様に思います。地元の教育委員会や郷土史探訪グループの活躍に期待したいところです。
三叉路を左折してバス道を南下すると道端に一里塚跡が立っていました。「歴史の道調査報告書-山陽道」では、山陽道をもう少し進んで小月市(いち)の西の外れ辺りに一里塚が立っていたとされていて、古地図にもその様に描かれていて位置の食い違いが見られます。一里塚から少し走って右に折れる所に「右かみがたへ、左とよたへ」と刻まれた道標が立っていました。元の位置から少し移動されているそうですが、このような道標が保存されている事により、歴史の道が今でも現役として活用されている事が分ります。殿様が参勤交代でこの街道を通っていた時代に思いを馳せながら、道標が立っている交差点を右折します。
交差点を右折した所に立っていた史跡表示によると、ここからは「見廻り通り」と呼ばれ小月市(いち)の歓楽街として栄えた通りで、武士が庶民の暮らしや治安を見て廻ったと言う事です。見廻り通りを過ぎると、山陽道は小月市(いち)を抜けて清末へと向かいます。 |
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旧国道の碑が立っている旧道
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日本一?の庚申塔
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小月御高札場付近
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小月の一里塚跡です
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道標
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見廻り通り
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