山陽道
下松市末武-周南市徳山
約7.4Km
末武中-久米市(いち)
 花岡市(いち)を抜けて西進します。旧街道は花岡駅前を過ぎた辺りからは往事の道幅に近くなり比較的古い町並みが続きますが、旧街道時代まで遡れる様な建物は残っていません。県道41号を越えて進むと道は山陽新幹線のガード下をくぐり末武中に入ります。新幹線の下をくぐってすぐの広石地区に一里塚があったとされていますが、今では痕跡は見当たりません。
間もなく道は末武川に出会います。一つ目の橋を渡り紅葉した桜並木が美しい川沿いの道を走りますが、この辺り一帯が宮原遺跡で弥生時代前期から古墳時代にかけての複合遺跡台地として注目されています。新幹線開通に伴う緊急発掘調査の後、遺跡の大部分は地中に戻されました。
国道2号の下を通り少し進むと、旧街道は右に折れて末武川と分かれ静かな住宅地の中を進みます。道は小川の所で二手に分かれていますが、この川が坂川で下松市と周南市の境界になっています。旧山陽道は周南市域に入り右側の見上ケ坂を登って行きます。往事の道幅を残す坂を途中で右に屈折しながら登って行き、順正寺の北側を通過する辺りから久米市(いち)に入ります。
久米市(いち)に入ると道は下り始め、左にカーブする辺りの角にひっそりと市戎の祠が建っています。久米は古代から周辺地域への交通の要衝として重要視されてきましたが、現在では山陽新幹線とJR岩徳線に挟まれた静かな住宅地に過ぎず、その役目を終えています。旧街道の趣を無くしてしまった道を進むと保育園横に神社の御旅所らしき場所がありますが、ここに高札場があったとされています。
久米市(いち)を抜けて西光寺川を渡って少し走り、交差点を右に曲ると杉玉が下がった大きな酒造場があらわれます。今でも現役の酒造場で、旧街道の趣を無くしたこの地域でここだけ往事の面影を残しています。
旧街道は山陽新幹線の下をくぐり一旦県道347号に合流しますが、すぐにまた右に分かれ徳山地域に入ります。
宮原遺跡周辺
周南市境界を過ぎ見上ケ坂へ
久米市(いち)戎
久米市(いち)
久米市(いち)高札場跡
久米地区の酒造場前
遠石宿
 県道347号から右に入ると早乙女坂と呼ばれる登り坂になります。ここでは昔、早苗打ちと言って、田植えの頃に縁起を担いで道行く人に早苗を投げかけて祝儀をもらう風習がありました。ある時早乙女が若い飛脚に早苗を投げ付けた所、この風習を知らなかった飛脚は怒り、短刀を抜いて早乙女に切りつけて殺してしまった事からこの坂の名前が付いたと言われています。坂道の右側には木が繁っていますが、この辺り一帯は白見ケ森と呼ばれ、旧久米村と遠石村との村境でした。
坂を下って進み、バス道を渡って一瞬県道347号に合流してすぐに右に分かれた辺りからが遠石宿です。広く交通量の多い県道から旧道に一歩入ると道幅はほぼ昔のままで、格子窓の町家が出迎えてくれます。程なく遠石八幡宮前に出ます。遠石町は遠石八幡宮の宮町として発展し、山陽道の宿場も置かれました。
遠石八幡宮の参道に入ると市戎が祀られており、右側には周南地方では最も古く、元禄挑戦と呼ばれた源平合戦で流れ矢に当り破損したと伝えられる洪鐘が保存されていて、周南市の文化財に指定されています。石段を上り詰めると日本四大八幡宮の一つである遠石八幡宮があります。社伝によると和銅元年(708)に社殿が造営されたとされています。
参道横から少し入った所にかつて千日寺がありましたが、その古跡の片隅に早乙女坂で飛脚に切り殺された早乙女を供養する碑がひっそりと立っています。遠石八幡宮前を過ぎると、入母屋土蔵造りの古色豊かな造り醤油屋や漆喰塗りの妻壁の破風に鏝絵を施した酒造場などが旧街道らしさを演出しています。
遠石宿の西の外れの神社の飛び地に影向石(えいこういわ)が祀られています。この石に宇佐八幡大神が降り立ち「…ああ遠し」と言ったのが遠石(といし)の地名の起源になったと言われています。この影向石の辺りにも旧街道の面影を残す格子構えの立派な商家が建っています。旧街道は遠石宿を過ぎてバス道を渡って進み、宝性寺前に出ます。
白見ケ森と早乙女坂
遠石市戎
遠石八幡宮
早乙女ノ碑
遠石宿の町並み
影向石
念仏坂-徳山宿
 県道347号の手前で宝性寺の塀に沿って細い路地に入ります。ここが念仏坂と呼ばれる坂で、入り口に「出雲国いつばたやくしかんじょうの地」と刻まれた石柱が建っています。今はもうありませんが、かつては坂の頂上に一畑薬師堂が建てられていて、この坂を通る人が皆「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えた事からこの名前が付きました。2m足らずの道幅の路地を登って行くと頂上に少し広い所があり、ここがこの坂にあったとされている一里塚跡かもしれません。人一人がやっと通れる程狭くなった道を下り県道347号を横切ります。
県道347号を渡った所からは緑地公園として整備されており、県道とJR徳山駅前に通じる道の分岐点までの400m程の旧街道の道筋は分らなくなっています。昭和48年に出光石油徳山工場で死者1名を出した爆発火災が発生し、工場と県道347号(当時の国道2号)の間は保安の為のグリーンベルトが設置されました。その為この地域の住民は立ち退きを余儀無くされ、旧山陽道も消滅したと言う事です。
松保町の県道と旧街道の分岐点にある分離帯にさすり仏碑が建っています。これは大正時代にこの地域を描いた絵画の中にも「足の疲れを治すさすり仏」として描かれており、往事の道筋を確認出来る貴重な遺跡となっています。
県道から分かれバス道を進むと道の右側に「孝女お米の碑」が立派なブロンズ像と共に建っていますが、お米さんもまさかこの様な立派な像を建ててもらえるとは思っていなかったでしょう。
東川を渡ると徳山城下町に入ります。旧街道は銀座通りのアーケード街を抜けてJR徳山駅前のロータリーに出ます。このロータリーの周囲に高札場、目代所、御茶屋が建っていましたが、今ではまったくその事を示すものは見当たりません。
徳山地域は萩藩の支藩の一つである徳山藩の中心地として発展しました。藩主の館邸は徳山動物園横、現在の周南市文化会館の場所に位地し、そこから南側の旧山陽道にかけて城下町が広がっていました。昭和二十年の二度に渡る空襲で旧徳山市内の大半が焼失したため、戦後思いきった都市計画が可能になり、旧山陽道も大幅に拡幅され旧街道を中心とした繁華街が形成されました。結果的に、戦火を免れた山口県内のほとんどの旧山陽道が主役の座を新設された国道や県道に譲り寂れてしまったのに対して、この地域の旧山陽道だけが城下町の街道沿いに発達した宿場町の繁栄を今に伝える事になったのは皮肉です。

この地域に関して「みんな元気」の管理人さんに色々と情報提供やご指摘をいただきました。感謝いたします。

念仏坂入り口
念仏坂
さすり仏碑
孝女お米の碑
銀座通りを抜けます
JR徳山駅前のロータリー