山陽道
玖珂郡玖珂市(いち)-差川
約7.4Km
玖珂市(いち)
 玖珂の市頭を過ぎて少し走った所で旧街道をそれて右に入ると、毛利氏との戦いで滅亡した大内氏の雄将鞍懸城主杉隆泰父子の墓が建っている祥雲寺があります。しかし建物は老朽化が進み取り壊されて更地になっていました。平成17年3月に訪れた時にはまだ建っていたのでその後解体された様です。これまで長い間無住となっていたので再建できるかが危惧されます。(平成17年9月現在)
旧街道に戻り玖珂本郷市(いち)に入り、旧街道の面影を僅かに残す道を西進します。玖珂の市は三市と呼ばれ、本郷市(本町地区)、新市(新町地区)、阿山市(阿山地区)と続き、街道沿いには旅籠屋が立ち並んでいました。現在でも道沿いに古い旅館が数軒残っています。
玖珂駅から南北に伸びる道と交差して少し走ると、明覚寺脇に玖珂の市戎があり、ここにかつて市(いち)があった事を示しています。市戎を過ぎると右側に岩国市玖珂総合支所があり、その奥に玖珂小学校が建っています。藩政時代には小学校の校庭付近に御茶屋がありました。そして、その校門前の役場の駐車場付近に代官所があり、ここが昔からこの地域の政治の中心地であった事が分ります。
役場前を過ぎると新市(いち)です。旧街道の名残りを残す道を走りますが、近年大規模な新しい公共施設も建設され、その内様変わりするかもしれません。新市(いち)の西の外れ近くに、古い杉玉がさがった旧街道時代を彷佛とさせる切り妻屋根、平入造りの酒屋があり、少しほっとさせられます。杉玉の酒屋から少し走ると水無川を渡ります。この川は玖珂扇状地を流れる島田川の支流で、扇状地特有の水が無い枯れ川になっています。
水無川を渡ると阿山市(いち)に入ります。ここからは道幅が広くなり町並みも若干新しくなりますが、所々に明治初期の建築の家屋や昔ながらの造り醤油屋などが残っていて、かろうじて旧街道の名残りを留めています。
菅原神社を過ぎると街道沿いには田畑が目立ち始め、旧山陽道は高森に向かいます。
玖珂の市頭
玖珂市(いち)戎
御茶屋、代官所跡
高村酒場の杉玉
水無川
玖珂阿山地区の町並み
高森市(いち
 玖珂三市(いち)を過ぎると少しの間国道2号と近接して走ります。玖珂の千束地区に入り道端に立っている常夜灯と道標を過ぎた辺りからは、ショッピングセンターやホームセンターなどが立ち並び道の雰囲気はにわかに賑やかになります。往事はこの道には往還松が立ち並んでいましたが、今では一本も残っていません。平成17年現在、旧街道沿いは、ここから勝間駅周辺までしばらく小さな酒屋や商店が数軒あるだけで大きなスーパーやコンビニはありませんので、食料の買い出しなどはここで済ませておくと良いでしょう。
東川を渡ると高森地区に入ります。高森市(いち)は山陽道の宿場としても古くから栄えており、東側から上市、中市、下市が並び、その名称は地名として今でも残っています。東川を渡り北側を見ると、旧道を国道の間にこんもりした小山が見えます。これが椙杜八幡宮が鎮座する泉山で、豊臣秀吉が名護屋下向の際に陣営を築いたと伝えられています。八幡宮参道脇には御米蔵が建っていました。
旧街道を椙杜八幡宮の参道入り口を過ぎて30mほど進んだ所に一里塚が建っていましたが、残念ながら今では痕跡を留めていません。高森市(いち)の旧街道は県道144号として拡幅されていて往時の道幅を失いましたが、昔の宿場町の面影を残す建物が幾つか現存おり、かろうじて歴史の道の雰囲気を残しています。
旧街道と柳井市に伸びる県道7号との交差点付近に番所御物送り場高札場がありましたが、その事を示す表示は見当たりませんでした。玖珂もそうでしたが、高森も史跡表示がほとんど無かったのは残念でした。番所、高札場跡から西へ数十メートル走ると脇本陣も勤めた受光寺があり、本堂裏の白壁には幕末、四境の役(第二次長州征伐)の芸州口の戦いで活躍した遊撃隊隊士の落書きが残されています。受光寺から少し行くと杉玉が下がった平入り、なまこ塀の良い雰囲気の酒造場と本陣跡が並んで建っています。しかし杉玉の酒造場は廃墟になっており、保存の措置を執らなければその内無くなってしまうかもしれません。
高森本陣は、萩本藩の東端の本陣として重要視され、幕府軍と長州藩との戦いである四境の役(第二次長州征伐)での休戦協定成立の舞台になりました。高森には旧街道から2km程南下した所に遊撃隊の本拠地になった通化寺もあり、明治維新のゆかりの地です。
旧街道を西進し島田川に至る所に周防三天神の一つ高森天満宮があり、そこを過ぎた辺から民家は少なくなり、道の左側には島田川、右側には田園風景が広がる様になります。
秀吉陣所跡
一里塚跡付近
番所、高札場付近
高森市の杉玉の酒造場(廃屋)
高森宿本陣跡
高森市(いち)の町並み
中村-掛ノ坂
 高森天満宮を過ぎて島田川沿いに少し走った所に島田川通船発着場跡があります。通船は島田川河口の浅江まで通じ、穀類、紙、塩などを運送して、幕末まで流域の産業開発に貢献しました。
通船発着場から200m程走ると三叉路があります。少し分かりにくいですが、多分これが鳴川峠に向かう鳴川道への分岐だと思われます。鳴川道は現在の国道2号と重複したり交差しながら伸びていて差川地区で再び旧山陽道と合流します。現在ではどちらかと言えばこの国道側を通る鳴川道の方が主要道と言えるでしょう。
鳴川道分岐を過ぎてからしばらくは島田川沿いの県道144号を走ります。三叉路から自転車で10分ほど走り島田川と県道144号とJR岩徳線が接近してくる辺に通称「孝行塚」と呼ばれる義奴碑が立っています。この義奴碑の手前、西長野地区と差川地区の境界の辺が掛ノ坂遺跡です。この辺は岩盤が川に向かって突出していた為、道は岩盤を越えて急坂となり、交通の障害として旅をする人や馬を悩ませた所です。昭和に入り、JR岩徳線の敷設の為に近代工法で岩盤が破砕されようやく平坦な道が整備されました。
義奴碑を過ぎるとしばらくは史跡も出てきませんので、島田川沿いの道を田園風景を楽しみながらのんびりと流します。往時は大木の往還松が並んでいましたが現存しているものはありません。その代わりと言う訳では無いでしょうが、JR岩徳線米川駅の手前に桜並木が植えられている地区がありました。
米川駅の手前、国道2号線方面に小道が分岐する辺に一里塚がありましたが、その位置を特定出来る物はありませんでした。旧山陽道は米川駅前を過ぎて中山峠へと向かいます。
島田川通船跡
鳴川峠への三叉路と思われる場所
島田川沿いに西進します
義奴碑
掛ノ坂遺跡
差川一里塚があったと思われる場所