山陽道
玖珂郡中山峠-下松市久保
約11.1Km
中山峠から高水へ
地図
米川駅前を過ぎて鬱蒼と繁った竹林の脇を通り過ぎると視界が開け、間もなく差川十字路に差しかかります。旧山陽道は斜め右方向の細い県道142号に入ります。十字路を過ぎると中山峠への登りが始まります。少し登った所に四体の石仏が現れます。これは宗泉寺の淡海和尚が島田川沿いに差川から弘末地区までの新道(淡海道)を開拓した事を記念して寄進された西国三十三観音のうちの四体で、廃寺になった宗泉寺参道の上がり口に立っています。
資料では、旧山陽道は四体の石仏が立っている場所から一旦左に分かれ少し下ってから急峻な丸子坂を登り、再び県道142号に合流する事になっています。しかし、この道は途中から分らなくなっていましたので県道まで戻って舗装された道を登りました。
しだいに斜度を増していく坂を登って行くと道の左側の畑の畦に自然石で出来た角柱が立っています。これが資料にある野面角柱と思われます。石柱には何も刻まれていませんが、地元では境界に立つ石仏とされています。ここから少し登った所に
さいの神(道祖神)
が祭られているはずですが、残念ながら見落としてしまいました。
急坂を自転車を押しながら登って行きます。頂上の100m程手前の道端の薮に立て看板があり、ここに
御駕篭立場
がありました。昭和初年頃までは数本の
往還松
が立っていたと言う事ですが、第二次世界大戦の時に軍事船用資材としてすべて切り倒され、今では一本も残っていません。峠の頂上には郡境碑が立っていて、これより周南市(旧熊毛郡)域に入り下って行きます。
坂を下り切った辺から高水地区に入ります。JR岩徳線の踏切を渡り線路の右側を数分も走ると今市新町です。
差川十字路
中山峠の石仏
野面角柱石仏?
中山峠の登り
駕篭立場跡
中山峠の郡境碑
今市(いち)から呼坂市(いち)
地図
今市新町に入りJRの線路沿いに走ります。3-4分程走り、地域の教育界に多大な貢献をした宮川米水先生の顕彰碑を過ぎると
脇本陣
も勤めた正覚寺があります。この辺から今市(いち)です。往時は正覚寺の山門前に
一里塚
が立っていましたが今では取り除かれていて痕跡は見当たりません。一里塚があった傍らに高水村塾跡碑が立っています。ここが現在岩国市にある高水学園の発祥の地です。
正覚寺を過ぎて川を渡ると白壁の土蔵や、入母屋屋根、妻入り造りの歴史を感じさせる建物をセンス良くアレンジした酒屋などが立ち並び、町並みはにわかに
宿場町
らしくなってきます。通りには商工会や公民館などが並んでいて、この辺が高水地区の中心地だと思われます。街道はJR岩徳線の踏切を渡りJR高水駅の前を通りますが、踏切を渡った所でかつての宿場町を彷佛とさせる町並みは一旦途切れます。
民家が少なくなり田畑が目立つ高水駅前を過ぎた所を右側に少し入った所に呼坂
御米蔵跡
がありますが、今では個人の屋敷になっています。南北に走る県道8号を渡った辺から旧街道は道幅が狭くなり、再び歴史の道らしさを取り戻します。橿原神社の手前辺から歴史の町呼坂市(いち)に入ります。今市(いち)と呼坂市(いち)は約1.3kmしか離れていません。山口県の山陽道の中では一番接近した宿場町です。
呼坂市には歴史を感じさせる建物が比較的多数残っていて江戸時代にタイムスリップした気分を味わえます。市の中程を流れる中川を挟んで東側を新町、西側を西町と呼びました。新町側に立派な門構えの屋敷が建っていますが、これが呼坂市の
本陣
を勤めた河内家で周南市の指定文化財です。
呼坂橋を渡り西町に入ると右側に寺島忠三郎と吉田松陰訣別の地碑が出てきます。松陰を護送する列が呼坂を通過する事を知った弟子の寺島忠三郎が、
馬建場
で休息を取っている松陰を人込みに紛れて見送りました。碑には牢駕篭の隙間を通して見つめあった二人が詠んだ惜別の歌が刻まれています。
西町側には妻入りの商家が立ち並ぶ旧街道の町並みに溶け込む様に、昔ながらの本物?の駄菓子屋やクラシックなミシンが陳列された店などが並んでいて、立ち去りがたい気持にさせれられました。山口県域の山陽道の町並みのなかでも往時の面影を強く残している場所と言えるでしょう。市の西の外れに脇本陣を勤めた西善寺があり、参道近くにかつては
高札場
がありました。
呼坂市を抜けると古市坂にさしかかります。
吉田松陰、寺島忠三郎惜別の歌
松陰-「かりそめの今日の別れは幸なりき ものをば言はば思ひをぞまさん」 あっけない今日の別れはむしろ幸いである。ものを言って別れれば、一層思いがつのって悲しくなるばかりだろう。
寺島-「よそに見て別れゆくだに悲しきを 言にも出でば思ひみだれん」 かげながらお別れするのでさえ悲しいものを、ものを言って別れるようになれば、心が乱れて耐えられないであろう。
高水村塾跡の碑と正覚寺
今市(いち)の町並み
今市(いち)の妻入り、平入り混在の町並み
呼坂御米蔵跡はこの奥にあります
呼坂本陣跡
松陰訣別の地(馬立場跡)
駄菓子屋などが並ぶ呼坂市の町並み
西善寺
高札場があったと思われる場所
古市坂から峠市(いち)
地図
呼坂市(いち)を抜けて古市坂を登ります。往時は欽明寺峠や中山峠と並ぶ難所とされていましたが、今ではアスファルト舗装された少し急な短い坂といった程度です。峠を登り切った所に呼坂市(いち)の起源になった古市の集落があります。集落を抜けて坂を下るとJR岩徳線に当ります。旧街道は線路の左側を通っていましたが、今では通れなくなっていますので線路を渡って少しの間国道2号を走ります。
国道を下りJR勝間駅の手前で左に分かれ旧道を走ります。平入、格子構えの家屋などが建っていて旧街道の面影を若干残していますが、古い家は老朽化が進んでいて寂れた通りと言った印象です。勝間駅前を過ぎた所で再び国道2号に合流します。
旧道が国道と合流する所の北側は開発されて御所尾原団地が出来ていますが、ここに豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に陣所を設けたという伝承があり、御所ケ原と言う地名の由来になっています。少し御所尾原団地の中を走ってみましたが、その事を示す物は見当たりませんでした。
国道2号を走り鳴水峠を越えます。峠を下りコンビニがある遠見の交差点で旧街道は右に分かれます。その辺りに遠見の
一里塚
がありましたが、ここも他の一里塚と同様に跡形もありませんでした。国道から分かれた旧街道は坂を登り少し進んだ所で途切れていて、先に進めませんでしたのでやむなく国道まで戻りました。この辺りの旧街道は国道と交差するように進んでいましたが、現在では拡幅された国道にほぼ吸収されてしまっている様です。
国道を進みJR岩徳線のガードをくぐった所に江戸末期まで
茶屋
と
御駕篭立場
がありましたが、国道から見る限りではそれに関する表示物は見当たりませんでした。そのまま勝間の峠を登って行くと頂上付近に旧熊毛郡(周南市)と旧都濃郡(下松市)の郡境碑が建っています。この碑は明治十九年と刻まれている割には新しいと思っていたら、資料によると元の郡境碑は自動車事故により壊滅したとの事でした。
郡境碑の所から旧街道は左に分かれます。分かれてすぐの所に
戎様
が祭られていてここから峠市(いち)が始まりますが、これまで
の市町
と違い、比較的新しい住宅がまはらに建っているだけのまったく往時の面影のない通りになっていました。
峠市を過ぎて国道に合流し、JR久保駅の手前で左の旧道に入ります。
古市坂
勝間駅手前の旧道
御茶屋と駕篭建場跡周辺
旧熊毛郡と下松市境界に立つ郡境碑
峠市の戎
峠市の町並み
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