山陽道
下関市小月-下関市長府城下町
約10.2Km
小月-清末(神田橋)
小月市(いち)を抜けて清末地区を目指します。
小月から清末に向かう旧街道は、静かな裏道といった風情で往時の名残をとどめる物は見当たりませんが、道沿いに建っている趣のある古いレンガ塀などが旧街道気分を盛り上げてくれます。
旧街道は孝女お政を顕彰した「孝行塚」の手前から清末地区に入ります。往時はこの「孝行塚」の手前に「乱れ橋」と呼ばれる石橋があり、小月村と清末村の村境になっていました。
清末地区に入り少し走った所に点滅信号がある四つ辻がでてきます。旧街道はそのまま直進しますが、この交差点を右折して小高い丘を登りきった所に東部中学校と公民館があり、その一帯が清末藩邸跡です。清末藩は萩藩の支藩である長府藩の支藩で、支藩の支藩というのは全国的にも異例でした。
藩邸跡から旧街道に降りる道は、往時は「御館道」と呼ばれ、この道から清末の城下町を見渡す事ができます。
旧街道に戻り、往時の城下町の賑わいがうそのような静かな道を走ります。清末八幡宮前を通過し県道41号を渡り千房地区に入ると、赤レンガで組まれた塀と蔵が目に入ってきます。
レンガの積み方は山口県の近代化遺産によく見られるイギリス積みで古い建物らしい事は分かりますが、山口県の近代化遺産リストには載っていませんでした。しかし、近代化遺産ファンとしては非常に気になる物件です。
そのレンガの蔵の隣に、最近改修された形跡がある古い長屋門が建っています。これが県文化財の「橋本家長屋門」で、清末藩邸の裏門を移築したものです。田舎然とした集落の中に突然現れた、近代化遺産風のレンガの建築物と古風な武家屋敷の取り合わせが面白く感じられました。
千房の集落を抜けのどかな田園風景の中を進みます。この田園地帯の終わりにかかっている橋が神田橋で、ここまでが清末藩領でした。この神田橋の長府側に、江戸時代にかけられた石橋が一部保存されていて旧街道ファンを喜ばせてくれます。
小月地区の旧街道
孝女お政の孝女塚
清末藩邸跡
御館道から城下町を見下ろします
清末八幡宮前
清末地区の旧街道
橋本家長屋門と赤レンガの蔵
千房地区の田園地帯
旧神田橋
王司神田地区-長府鞏昌(きょうしょう)橋
神田橋を渡り長府藩領に入ります。橋を渡ると道幅は広くなり、古い木造の建物を再生した工房などが建っているものの、町並みは比較的新しい住宅街といった趣に変わり旧街道らしさは失われます。少し走ると旧街道は国道491号を渡ります。
旧街道は国道491号とJR山陽本線に挟まれた狭い地域を蛇行しながら伸びています。国道を渡ってしばらくは道沿いに金融機関のグランドなどがあり国道脇の味気ない道が続きますが、その内に道沿いに古い木造家屋や田畑がちらほらと現れ、若干旧街道らしさを取り戻します。
資料では旧街道とJR山陽本線が一番接近した辺りに宇部地区の一里塚があったとされていますが、現地に建てられた一里塚跡の標柱は、そこからもう少し走った四つ辻の一角にありました。
「歴史の道調査報告書-山陽道」に記載された史跡の位置と現地の史跡表示の位置がくい違っている事はこれまでも何度かありました。往時は正確に測量された地図などはありませんでしたから、今ではもう失われてしまった史跡の位置を特定するのは困難になっているのでしょうか。
一里塚をすぎて少し走り集落を抜けると道の周囲には田畑が目立ち始めます。この辺りから国道の下をくぐるまでの馬ノ背地区の旧街道は、私が所有する道路地図には載っていませんでしたので現存しているかどうか心配でしたが、実際走ってみると細いもののしっかり舗装された道が残っており一安心です。往時は国道の下をくぐる手前に馬ノ背の御駕篭立場がありました。
国道の下をくぐると旧街道はしばらく国道とJR山陽本線の間を直線的に伸びています。JR長府駅前を通過して少し走ると、所々に古い土蔵などがでてきて少しずつ歴史の街長府らしい雰囲気が漂ってきます。
現在は長府の忌宮の御旅所になっている宇津宮の前を通過し、八幡橋を渡る辺りから表面の白壁がはげ落ちた土塀などが現れ、いよいよ長府の城下町に近づいてきた事がわかります。
国道2号を横切ると印内川にかかる短い橋があります。これが鞏昌(きょうしょう)橋で、この橋の手前に往時は一里塚がありました。この橋を渡るといよいよ長府の府中に入ります。
古い民家を利用した工房
王司宇部地区の旧街道
宇部一里塚付近
馬ノ背の御駕篭立て場付近
八幡町の旧街道
宇津宮前
八幡橋を渡ります
八幡町の土塀
鞏昌橋手前一里塚付近
長府城下町
鞏昌(きょうしょう)橋を渡ると長府城下町に入り、町並みは一変します。道は二車線の道路に拡幅され、商店や神社仏閣が立ち並び、観光客も多数訪れる県内の旧山陽道では防府以来の観光スポットです。
鞏昌(きょうしょう)橋を渡った所が金屋町です。金屋とは長府の鋳物師が住んだ所で、資料によると往時は「金座」として賑わった場所という事です。
金屋町の商店はどれも最近改装されて新しくなっています。どの店舗も江戸時代の商店の意匠で統一され、長府を歴史の町としてアピールしようという意欲が感じられます。
金屋町から中之町に入ると、通りの名称は「乃木さん通り」と変わり、町並みも旧来の商店街といった趣になります。この地区には、通りの名前にあるように乃木希典を祀った乃木神社があります。
乃木神社の鳥居をすぎて少し走ると今度は忌宮神社の鳥居が出てきます。忌宮神社は、仲哀天皇が七年間この地に留まり、豊浦宮を設け政務を執ったとされる場所です。さらに律令時代には長門の国府がおかれ、忌宮神社の神域を中心として国分寺や鋳銭所も置かれていたと推定されています。周防の国の国府が置かれた防府に対し、長門の国の国府が置かれたので長府と呼ばれるようになりました。
旧山陽道は乃木さん通りの商店街を通過し、壇具川より一本手前の県道246号に沿って右折します。そこからの町並みは、城下町らしい古色豊かなたたずまいに一変し歴史の道の雰囲気を取り戻します。
旧街道は長府毛利邸まで西進し、内藤家長屋門の所で左折します。少し走ると道の右側に「高杉晋作回天義挙之所」と刻まれた碑が建っています。ここが維新史を語る上で欠かす事の出来ない功山寺です。
幕府恭順派が実権を握る萩藩の藩論を倒幕に統一するために、高杉晋作がたった80人の兵を率いて決起したのは元治元年(1864)12月15日の夜でした。辺り一面に降り積もった雪を、月明かりがこうこうと照らしていたといいます。
高杉晋作がここを挙兵の地に選んだのは、ここに「八月十八日の政変」で京都を追われ長州に落ちてきた三条実美ら五卿が潜居していたからでした。五卿に進発の挨拶をする事により、義挙の大義名分を得る必要があったのです。
高杉晋作が踏みしめたであろう石段をゆっくりとのぼって行くと、威厳のある山門がそびえています。山門をくぐると国宝に指定されている仏殿があり、その右の方に高杉晋作が馬に乗っている「高杉晋作回天義挙像」が建っています。高杉晋作ファンの私としてはぜひ訪れてみたい場所の一つでした。
功山寺の境内の続きには、長府藩士であり報国隊員として活躍した桂弥一が、資金集めに奔走し私財までも投じて建てた尊攘堂(現長府博物館)や、全国の有名無名の維新の志士を弔った万骨塔なども建っています。
もう少し維新気分に浸っていたい所ですが、先はまだ長いので名残りを惜しみつつ功山寺を後にします。功山寺あたりまでが長府城下町です。せっかくですから少し旧山陽道を離れて、武家屋敷の練塀や長屋門が残された城下町の町並みを楽しむのもお勧めです。
金屋町の町並み
忌宮神社前
武家屋敷の町並み
壇具川の一本手前を右折します
功山寺手前
功山寺山門