山陽道
周南市徳山-周南市福川
約8.4Km
徳山浦山地区-川崎地区音羽橋
 JR徳山駅前のロータリーから西進します。このJR山陽本線と県道347号の間を走る旧街道も、浦山地区までは徳山大空襲の影響でまったく往事の面影を留めていません。これまでの道ならきれいに整備しなおされた道でも、所々に石仏や祠が祀ってあったりして旧街道の痕跡を僅かでも残していますが、ここではそれらしきものもまったく見当たりませんでした。
旧街道は山陽新幹線の高架の手前で県道347号と交差しますが、今ではその道筋は分からなくなっていますので、一旦県道347号に出て新幹線の下を過ぎた所の交差点で右に折れます。国道2号と県道347号に挟まれた狭い地区は道幅も往事に近くなり、ようやく落ち着いた旧街道の雰囲気を取り戻します。浦山地区に入って少し進んだ所に一里塚があったとされていますが、今ではその場所は推定する事しか出来ません。
一里塚跡を過ぎて少し行くと旧新南陽市域に入ります。川崎地区の民家の石垣に古い木の枯根が残っていますが、これが旧街道の往還松の跡と言う事です。往事はこの辺りには往還松が立ち並んでいたと思われます。
川崎地区に入ると、切り妻屋根土蔵造りの醤油屋や格子窓の民家が所々に建っていて、狭い道幅と相まって旧街道の趣が増してきます。富田川の手前に「當国十八番景清護身観音」と刻まれた道標が建っていて、ここから川崎観音に登っていく道が分かれています。三代徳山藩主元次以降の藩主はこの観音の前を通過する時は駕篭を降り、帆船がこの沖を航行する時には帆を降ろし、漁夫も鉢巻きを外して拝礼したと言われています。
富田川に架かる音羽橋の東詰に、ゴミステーションに挟まれて所在無さげに山崎八幡宮の常夜燈が建っています。往時はこの辺りまで海が入り込み、富田川は徳山藩の天然の堀の役目をはたしていました。関門番所もここに置かれ、人や船の出入りを厳重に取り締まっていて、海上から来る船はこの常夜燈を目標にしていました。
新幹線下を過ぎて右折します
浦山一里塚跡付近
往還松の枯根
川崎地区の旧道
川崎観音道標
荘寺(山崎)八幡宮常夜燈
政所地区-富田市(いち)
 音羽橋を渡り政所地区に入ります。この辺りの道筋は直線的に伸びていて、かなり先まで見通す事が出来ます。資料には往還松が一番遅くまで残っていたとあり、遠くまで往還松が立ち並ぶ風景はさぞかし見ごたえがあったでしょう。
JR新南陽駅から北に伸びている県道3号を渡ると右側に道源休屋跡があります。今では旅館が建っていますが、ここはかつて道源家の屋敷で、道中休息所として広場が設けられていました。現在の駐車場の辺りでしょうか。
道源休屋を過ぎて少し行った辺りから、白壁の土蔵や、切り妻の大屋根を頂いた土蔵造りのかつては商家であったであろう民家が所々に建っていて、旧街道巡りのにわか旅人を迎えてくれます。
山崎八幡宮手前の辻に上半分が折損した道標が建っていました。下部は「魂場」と読めますので、「招魂場」の事でしょうか。旧街道は山崎八幡宮の前で北に折れ、その角には山陽道の道標が建っています。山崎八幡宮の南方、JR新南陽駅近くに勝栄寺があり、ここであの有名な毛利元就の「三本の矢」の教訓状が書かれたと言う事です。旧街道からは少し離れますが、寄ってみる価値はあるでしょう。山崎八幡宮の石段横には新町の市恵比須があり、旧街道はここで今度は西に折れます。
山崎八幡宮から少し走り、短い橋を渡った辺りから富田市(いち)に入ります。新町地区の旧街道は直線的に続き、入母屋屋根、妻入り造りの民家や、平入土蔵造りの商店が点在し旧街道の面影を残しています。信号がある交差点を通り過ぎて富田ニ丁目に少し入った所で旧街道は南に直角に折れ横町に入りますが、ここを北に少し登った所に横町の市恵比須があります。
南に進み県道347号を渡り、平野地区に入ると旧街道は西に折れ進みます。角には大きな杉玉が下がった酒造場があり、沿道には古い民家が目立ち始めます。平野地区には古代の駅があった事が分かっていますが、場所は分かっていません。平野地区の旧街道の北側に曹洞宗祥雲寺がありますが、ここには難行した道源開作の塩止め工事完成の為に人柱となった娘おまつの墓があります。江戸時代後期まで実際にこのような事が行なわれていたとは今では信じがたい事です。
平野一丁目とニ丁目の境の辺りにかつては高札場があり、富田市(いち)はここで終わります。
道源休屋跡
富田地区旧道
山崎八幡宮前の道標
山崎八幡宮と市恵比須
富田市恵比須
富田市の酒造場
温田峠-福川宿
 富田市(いち)を過ぎて比較的古い町並みを行くと、平野地区の終わり辺りで道はふた手に分かれます。旧街道は右側の道を行きますが、現在ではすぐに民家に行き当たり通れなくなっていますので分岐手前で右折して細い路地を抜けて県道347号に出ます。
ここから南陽工業高校辺りまでは往事は坂道になっていて温田峠と呼ばれていました。峠の頂上の南陽工高の下の住宅地の辺りに萩御水茶屋所がありました。この茶屋には、若山城が杉重輔に攻められ落城した時に現れた落武者が酒を所望して金銭の代わりに置いていった、と伝えられる兜が残されていました。大正四年の大正天皇御大典記念奉祝行事の余興行列で、この兜をかぶって歩いている古い写真が残されています。茶屋所から駕篭建場、一里塚、温田観音と並んでいましたが、今では平坦な県道に整備されていて、往時を感じさせる痕跡はまったく残されていません。
温田峠から少し西進すると、旧街道は県道から右に分かれます。旧道に入ると沿道に白壁の土蔵作りの旧商家が現れ、にわか旧街道らしくなります。分岐から100m程走ると、かつては徳地御米蔵跡であった酒造場がありましたが、取り壊されたらしく、それらしき場所は更地になっていて住宅が建ち始めていました。少し進むと道の北側に鳥居が建っていて辰尾神社の参道が北に伸びています。その横に脇本陣がありましたがそこも更地になっていました。
程なく旧街道は右に折れますが、その手前に御米蔵や高札場があったと言う事です。宿場特有の鍵状に折れ曲がった道の角に山口県の近代化遺産に指定されている酒造場があり、そこを抜けると本陣町に入ります。地名の通り、この地区には福川宿本陣を務めた福田家があり、今では本陣門だけが改修保存されています。この福川宿の旧街道は往事は海に面していました。
旧街道は行き止り
温田峠
福川旧道入り口
福川旧道
福川市の酒造場
福川本陣門