山陽道
防府市宮市-防府市大道
約9.2Km
宮市宿
万行寺前辺りからが宮市宿です。鍵の手を曲がったところから道は防府天満宮まで拡幅されていて、車では通行しやすくなっていますが、旧街道らしさは失われています。
防府天満宮は菅原道真の霊を祭るお宮としては全国最初のものと言われ、日本三天神の一つに数えられています。旧街道脇の一の鳥居は萩藩初代藩主毛利秀就によって建立され、銘入りの石鳥居としては県内最古のものです。旧街道を離れて天満宮の石段を少し登ると、左側に天満宮の社坊の一つであった大専坊跡があります。ここは幕末には、この地を警護する諸隊の屯所となりました。また向かい側には往時は園楽坊があり、現在は茶室が設けられていて庭の一角には暁天楼が復元されています。暁天楼は山陽道沿いにあった旅籠「藤村屋」の一部で、幕末には高杉晋作や伊藤博文、坂本龍馬ら維新の志士達がしばしば投宿し、密議を計ったと伝えられている史跡です。
安政六年(1859)五月二六日、吉田松陰が安政の大獄で江戸に護送される時に防府天満宮の前を通過し、牢駕篭の中で万感の思いを込めた歌を詠んでいます。
天満宮を過ぎると宮市宿本陣を務めた兄部家前を通ります。兄部家は鎌倉時代から合物(塩魚)を中心に商品の流通を取り仕切り、その範囲は東は富田市、北は徳地市、西は嘉川市まで及び、宮市商業の中心として栄えました。全国測量中の伊能忠孝も泊まった事があり、建物の一部と庭が市の史跡に指定されています。
この辺りは萩往還と重複していて、沢山の旅人が行き交い非常に賑やかな通りだったと記録にあります。兄部家から西に少し行くと定念寺があります。ここには木喰上人が彫った木喰仏があり、門前には遊行上人がもたらしたと言われている宮市観音が立っています。定念寺の横には脇本陣を務めた中村家がありました。
かつて宮市は防府天満宮の鳥居前町として栄え、商業と交易の中心地としても発達し大店が軒を列ねていました。今では町の中心地はJR防府駅側に移り、古い酒造場などが昔の繁栄の面影を留めているのみです。兄部家横には山口県の近代化遺産に指定されている伊藤洋服店もあり、また、旧街道の近くには漂泊の俳人種田山頭火の生家跡や山頭火の少年時代の通学路であった趣のある路地「山頭火の小路」などがあり、お薦めの散歩、サイクリングコースです。
国道262号と交差する辺りに一里塚が幕末頃までありましたが、今ではその痕跡を留めていません。
吉田松陰「涙松集」
「思ふかな君がつくしのこころしは賤(しず)があづまの旅につけても」-菅原道真が筑紫の国に流された無念さは、江戸送りになった私にはよくお察しできます。
防府天満宮の一の鳥居
大専坊跡
復元された暁天楼
兄部家(左)と伊藤洋服店(右端)
定念寺と宮市観音
山頭火の小路
古祖原から佐野まで
県道54号を越えると古祖原に入ります。ここからは、宮市までの昔の宿場町の面影を残す町並みと違い、所々に田畑が残るごく普通の住宅地と言った趣です。途中で玉祖神社を勧進した小さな社があるのが唯一の旧街道の痕跡でしょうか。道は市営アパートの前を通って佐波川の土手の上を走ります。旧山陽道は古地図では一旦土手を降りて植松八幡宮の前を通って再び佐波川の土手に登る様になっていますが、今では植松八幡宮は少し西に移転しておりその道はもう無いのでそのまま土手の道を直進します。
大崎橋が架かっている所が大崎の渡しがあった所です。平成16年に歩行者、自転車専用の橋が出来て安全に渡る事が出来る様になりました。
大崎橋を通って国道2号を渡ると玉祖神社があります。玉祖神社は周防一宮として古い由緒のある神社で、この辺りは交通の要所として古くから発達していて、古代には大前の駅家があったと推定されています。玉祖神社を過ぎた辺りから道は細くなり、再び旧街道らしくなります。往時は路沿いに往還松が立ち並んでいました。向山の下を通る道をしばらく行くとY字路に出ます。山陽道は北側(山側)の道を行きます。玉祖神社の灯篭の前を過ぎて200m程走った所に一里塚が建っていましたが今はもうありません。しばらく走り、放光会館(放光地区の集会所?)を過ぎると右側に堤が出て来ますので、右折して堤沿いの道に入ります。
古祖原
佐波川沿い
大崎の渡しがあった所
Y字路を右へ
玉祖神社の灯篭前を通ります
堤沿いの路へ右折します
佐野峠から大道市(いち)まで ※平成19年3月25日加筆修正
200-300mぐらい進むと、地元の老人クラブが設置した佐野峠の入り口を示す案内看板がありますので、それに従い左折し峠道に入ります。土の峠道は階段が整備され、竹やシダ類も良く刈り込まれていたおかげで、自転車を押しながらも難無く佐野峠の駕篭立場跡までたどり着く事ができました。駕篭立場跡は公園風に整備されていて、すぐ横まで車でも登って来れるようになっています。
往時の佐野峠からは佐波川の河口付近を見渡す事が出来、昔の絵図からも駕篭立場が展望台になっていた事が分ります。江戸時代の文人、大田南畝(蜀山人)も佐野峠に立ち、「まことに山陽第一の佳景なるべし。」と絶賛しました。
しかし、山陽自動車佐波川パーキングエリア建設に伴い、駕篭立場跡はパーキングの上側の給水塔横に移転し、旧山陽道の道筋も若干変更されています。佐波川の河口付近も近代になって干拓され海岸線が遠のいたため、大田南畝が絶賛した眺望は今では見る事ができません。
ここで一息ついた後、再び旧山陽道を自転車を押して進みます。佐波川パーキングエリアを回り込むようにコンクリート舗装された道を通り、再び山の中の地道に入ります。平坦になった旧街道はさらに広くなり自転車に乗る事もできそうですが、往時に近い状態の貴重な地道の旧街道を、ゆっくりと楽しみながら自転車を押して進みます。所々自転車をかついだりしながら土の峠道を下っていくと、舗装された道に合流します。
この佐野峠の旧山陽道は、平成16年に通った時は道は荒れ果て佐波川パーキングエリア付近から西は通行不能になっていましたが、防府ロータリークラブをはじめとするボランティアの人達の努力により、快適に通れる道に生まれ変わりました。少しでも多くの人にこの道を歩いてもらい、旧山陽道が再び廃道にならないように願っています。
舗装された道を下り孝女お石の碑前を過ぎると小さな集落に入ります。ここが岩淵市(いち)で、30軒程の集落は昔からその規模は変わっていません。軒の低い格子窓の家があり、この道が旧街道であった事が分ります。岩淵の集落を抜けると道端の草むらの中に無銘の小さな墓が立っています。「瀬十郎墓」と呼ばれ、この辺りまで入り海になっていた頃に瀬十郎がハマグリを食べて中毒死した墓碑と言われています。この墓を粗末にすると祟りがあると言い伝えられていて、そのために今まで取り払われずに残っていたのかもしれません。
横曽根川を渡り土手を降りて道は国道2号の下をくぐると大道地区に入ります。道は再び細くなり大道公民館の横を通り県道25号と交差します。

平成19年3月、地元のケーブルテレビの放送で佐野峠道が整備された事を知り、この部分だけ走り直しました。

佐野峠への入り口
佐野峠の登り
佐野峠駕篭立場跡
現在の佐野峠からの眺め
岩渕市
清十郎墓