山陽道
防府市富海-防府市国衙
約8.3Km
富海宿
国道2号線を越えて富海の町に入ります。富海小・中学校の付近は昔は街道沿いに往還松が立ち並んでいましたが、昭和十八年頃に田畑の陰になるのを嫌い切り倒されてしまいました。少し走り、小川を渡ると道幅が狭くなり旧街道の趣が出てきます。この辺りが東町と呼ばれている所で、昔は宿場があり賑わっていました。道の北側に本陣跡が保存されています。本陣は萩藩の支藩にあたる徳山藩に属する御茶屋で、現在は個人の所有になり建物の一部がかろうじて保存されている状態です。この本陣の向いの岩崎洋服店の場所に往時は天下送り御番所があり、継場という門名だけが残っています。
そのまま街道を西進すると「当国二十番龍谷寺道」と書かれた指差し道標などがあり、この筋が古くからあるという事が分かります。JRの踏み切りを渡る手前に高札場があったとされていますが、それらしい場所は分かりませんでした。踏切りを渡ると西町に入ります。JR富海駅前には古い旅館が今でも建っていて、この地が往時は港を備えた宿場として賑わっていた事が分ります。
しばらく進むと道に面して石の鳥居が建っていますが、これはえびす堂の鳥居で寛政十二年(1800)九月に建立されました。少し行くと共同墓地の中に「攘夷義侠大和屋政助墓」と書かれた案内看板が立っています。大和屋政助は、天誅組の変の主謀者で尊王攘夷派公家中山忠光を大阪から自分の飛船で助け帰り保護したり、高杉晋作の馬関(下関)脱出を助けるなど、勤王の志士達を支援した飛船問屋です。
飛船とは瀬戸内海の旅客船および貨物船の役割を果たした小型船で、船体の割には大型の帆を張り船足が早く機動力がありました。また、富海の飛船は少々の悪天候でも危険をおかして出航したため、高杉晋作や吉田松陰をはじめ維新の志士達も良く利用しました。旧山陽道から一本海側に入った細い道沿いには往時は飛船問屋が軒を並べていて、大和屋政助の屋敷跡には高杉晋作や中山忠光をかくまった土蔵が今でも建っています。有名な下関の商人白石正一郎や小郡の庄屋林勇蔵だけでは無く、大和屋政助のような歴史には登場しない名も無い大勢の人々が維新の志士達を支えていました。
昔の町並みの雰囲気を残す通りは墓地までで、墓地から踏切りまでは近年建った家が多く、普通の海岸沿いの道といった感じです。
東町の格子窓の家
富海本陣跡
指差し道標
えびす堂
大和屋政助墓
大和屋政助旧宅跡の土蔵
橘坂から浮野峠へ
山陽本線の踏み切りを渡ると橘坂の登りにかかります。踏切りを渡った辺りに富海の一里塚がありましたが、痕跡は残っていません。橘坂は県道58号(旧2国)の富海トンネルの上をまたぎ山の中に入って行きます。舗装が終わる辺りで「手掛岩」と呼ばれる岩が出てきます。旅人がこの石をなでると足が軽くなるとの俗信があり、昔は石の下半分がつるつるしていたと言う事ですが、今では触る人もいません。ここからは周防灘を見渡す事が出来、絶景です。昔の旅人もここで一息付いた事でしょう。岩国市の小瀬を出発して以来、浮野峠で始めて往時を彷佛とさせる本格的な地道に出合います。
平坦な山道をしばらく進むと右側の少し高くなった所に「大内輝弘の墓」があります。この辺りは、永禄十二年(1569)大内氏再興を目指して九州から攻め込んできた大内輝弘が、毛利軍に追われて立て籠りついに自刃した古戦場です。この屋根に大内菱を刻んだ墓は大内輝弘の墓と言われていいます。この近くにも大内菱が刻まれた墓がニ基建っていて、家臣の墓かもしれません。
道は段々と狭くなり、人が一人やっと歩けるぐらいの荒れた道を普通の折り畳み自転車を押して登って行く事になります。少し行くと明治四年の道路改修碑が建っていました。この碑は、土に埋もれていたものを地元の牟礼郷土誌同好会の方々が苦労して探し当てて整備されたと言う事です。富海から浮野までの山道や史跡の案内看板は、地元の方々がよく整備しておられて、険しいながらも通りやすくなっています。地元の方々の努力には頭が下がります。
途中、往時のまま残された石畳の道を通ったり、道を遮って流れる小川を渡ったりしながら峠の坂を登って行きます。とても自転車に乗る事はできません。ようやく浮野峠を越えると竹林になり、笹のクッションがきいた気持の良い道を自転車に乗ってゆっくりと下って行く事が出来ます。少し下ると道は国道2号と交差し舗装路に変わりました。
橘坂
手掛岩
周防灘が見渡せます
大内輝弘の墓と伝えられています
石畳の道が残っています
浮野峠の竹林
浮野町から今宿まで
国道2号バイパスと接する辺りに少し広くなった所があり、かつてはここに駕篭立場がありました。峠を下り切って最初の集落が浮野町です。浮野町に入ると左側に空き地が出てきますが、ここは徳地屋跡で、徳地屋は旧藩時代に旅籠屋として栄え大名の休息所も務めていました。浮野町は浮野半宿(はんじゅく)として旅をする人を次の宿場まで送る中継地の役目を果たし、古くから栄えました。継場には旅人を次の宿場まで送る為の人足と馬が常に用意されていたと言います。今では継場の場所も分らず、普通の集落といった趣きで、かつての繁栄の痕跡は見当たりません。
しばらく進むと四ツ辻に「春日宮」と彫られた常夜灯が立っています。春日神社は牟礼の農業大学の北側にあり、重源上人が奈良から勧進したと伝えられています。明治の末頃までは毎夜当番で灯を灯していたと言います。常夜燈を過ぎて少し行くと浮野の公民館がありますが、その向かい辺りに高札場がありました。
柳川を渡ると今宿に入ります。JA牟礼支所の向かい辺りに一里塚があったと言う事ですが、今は遺構は残っていません。この辺りの道は牟礼地区を東西南北に走る筋の中の一本に過ぎず、旧街道の面影はまったくありません。今まで仕事などで何度もこの道を通っていましたが、旧山陽道であることにはまったく気がつきませんでした。しばらく西進すると四ツ辻に当国二十一番、二十二番観音の道標が立っていますが、これがこの地区唯一の旧街道の名残りです。二十一番の大光寺と二十二番の現観寺とも今は極楽寺に合併されています。
そのまま西進すると道は県道54号(旧2国)に合流しますが、この辺りに古代の宿場の機能を有した勝間のがあったという事です。
浮野町へ入ります
徳地屋跡
春日神社の常夜灯
今宿に入ります
農協前-一里塚があった所
二十一、二十二番観音道標
国衙から防府天満宮へ
県道を300m程走り、周防国衙跡と彫られた石柱が立っている交差点を右折します。この辺りから防府天満宮周辺までは防府市の中でも屈指の観光ルートです。旧山陽道は北進し周防国衙跡の中心を通り抜けます。慶長年間にはすでにこのルートを通っていたと記録にあります。国衙跡は今は史跡公園として整備されていて中心部に国庁跡の碑が立っていますが、古代律令制時代から現在に至るまで国衙の形態がよく保存されているのは全国でも珍しく、昭和36年(1961)に開始されたれた発掘調査は全国の注目を集めつつ現在も継続中です。
道が北に突き当ると山陽道は西に左折しますが、反対の東に20m程行った所には多々良の大仏堂があり、3m程の大仏が安置されていて重源上人の作と言われています。
旧山陽道を国衙跡の北辺に沿うように西に進むと毛利氏庭園への入り口があります。毛利氏庭園は長州藩主であった毛利氏の明治維新後の邸宅として、明治、大正時代の建築、造園技術の粋を集めて造られました。毛利氏に伝来した数々の国宝や文化財をはじめとする2万点に及ぶ資料を展示した毛利博物館も併設されています。
毛利氏庭園前を過ぎてしばらくすると白壁がほとんど剥げ落ちて土が剥き出しになった土塀が見えて来ます。ここが周防国分寺です。創建当時のままの位置に国分寺が残っているのは全国的にも珍しく、国の史跡に指定されています。
国分寺の土塀にそって進むと万行寺が出てきます。この万行寺で人馬引き継ぎの業務を行なわれました。このお寺の前の道は、古い宿場町特有の鍵の手状に屈折していて歴史の道らしい趣がありますが、現在では交通の障害にもなっています。昔はこの道は国道でした。
鍵の手を過ぎて西進すると防府天満宮の大鳥居が出てきます。
国衙跡へ北上します
国庁跡の碑
多々良大仏
国分寺の土塀
国分寺
万行寺前の鍵の手