山陽道
宇部市割木松-宇部市吉見市(いち)
約10.7Km
割木松-山中市(いち)
割木松の郡境碑の西側から宇部市に入ります。峠の頂上付近のパチンコ屋の所を右に入り旧道を走ります。国道のすぐ横を並行して、庚申塔三界万霊塔が立っている様なのどかな旧道が通っているとは今まで気がつきませんでした。
割木松の小さな集落を過ぎると旧街道は再び国道に合流します。この辺りの道は、今では国道が通り交通量も多く賑やかですが、かつては深山の中を下って行く寂しい道でした。400m程国道を走ると旧街道は右に分かれ、水路沿いの土の道を迂回し、宇部テクノパークに通じる交差点付近から山中市(いち)に入ります。
山中市(いち)は半宿でしたが、常時馬を15疋備えていて本宿同様であったと言われています。山中市(いち)は上市と下市に分かれていて、上市では専念寺が本陣を務めていました。上市側には旧街道の面影を残す、軒の低い格子窓の家が少しですが残っています。
上市のはずれの地蔵堂で右折し少し川沿いに迂回した後に国道2号に合流します。文献には、国道に合流する付近に、この山中市を開いたと言われている伊藤彦四郎の墓があると書かれていましたので探してみましたが、荒れ果てた墓らしき跡があったものの、それが伊藤彦四郎の墓がどうかは分りませんでした。
国道沿いの道に数メートルほど古い石垣が残っていて、旧山陽道の遺構と言われています。ドライブインを過ぎた辺りで旧街道は国道から左に分かれ、川沿いの道を通り下市に入ります。この川沿いの道は鋪装されているものの、旧街道の道幅のままで昔の面影を残しています。
下市集落に入り、国道を横切ると薬師堂があります。この薬師堂は大内弘孝が建立したとされていて、厨子に大内菱の紋があります。薬師堂から約10m程離れた国道に面した所に本陣がありましたが、今では倉庫が建っているだけです。
下市は国道に分断されており、上市の様な昔の街道の面影はあまり残っていませんでした。
水路沿いの旧街道をのんびりと
山中市(いち)-上市の町並み
国道2号沿いに僅かに残った石垣
山中市(いち)-下市手前の昔の面影を残す旧街道
山中市(いち)-下市の薬師堂
山中市(いち)-下市の本陣跡
二俣瀬-瓜生野
山中市(いち)を過ぎて国道2号を走ります。昭和58年の地図では旧街道は国道と小さく交差するように走っていますが、現在では国道が路線変更や拡幅されたせいか、今ではそれらしい道はほとんど見当たりません。
車地の交差点手前で与助の首塚跡の説明柱が立っていました。与助とは天保ニ年(1831)の百姓一揆で斬首された人物です。この時の一揆は約一万人が加わった大規模なもので、与助は首謀者の一人とされています。昔は立派な松ノ木が立っていて目印になったと言う事ですが、今ではもうありません。旧街道はこの首塚跡から右に入ります。この時期の旧街道は黄金色の稲穂と朱色の彼岸花に彩られて、サイクリングには絶好の季節です。
小野湖から下ってくる国道490号と交叉する車地の交差点を左折して厚東川沿いの道を走ります。二俣瀬小学校を過ぎて少し行くと立派な酒造場が現われました。100年以上の歴史を誇る酒造場で、ブランド名は良く知っていましたがここにあるとは知りませんでした。こういった思わぬ発見も自転車の旅の楽しみの一つです。
酒造場を過ぎると木田橋が見えて来ます。「歴史の道調査報告書 山陽道」では二俣瀬舟渡しは現在の木田橋付近にあったとされていますが、現地の史跡表示は木田橋から300mほど下流の二俣瀬郵便局の辺りに立っていました。渡し場跡や一里塚跡など、資料と現地の史跡表示の位置が食い違っている事が何度かありましたが、なぜ違いが生じたのかは私には分りません。個人的には地元の方々の史跡調査の結果の方を尊重したいと思っています。二俣瀬の渡船はニ艘、渡し守は五人いたと記録にあります。
木田橋を渡ると木田地区に入ります。川沿いの道を走り二俣瀬の交差点で国道2号を横切り二俣瀬地区の旧道に入ります。立派なしめ縄がかけられた庚申塔が道端に立っていて、昔は旅人を見守っていた事でしょう。国道2号に合流して少し行くと、道から少し入った所に薬師堂が建っていて、この地の字名の「薬師堂」の由来になっています。昔は堂守がいたこともあり、境内には堂守の墓らしきものもあります。
しばらく国道を走った後、国道と並行する瓜生野の旧道に入ります。
与助の首塚跡が旧街道の入り口です。
彼岸花と稲穂に彩られた旧道
木田橋手前の酒造場
木田橋と二俣瀬の舟渡し付近
瓜生野の薬師堂
瓜生野の旧道
瓜生野どんだけ道-吉見市(いち)
瓜生野の旧道を少し走り公民館の西側の細い道から右に入ります。入り口の角に山陽道(殿様道)の説明柱が建っていて目印になります。この道は資料にはどんだけ道と書かれていましたが、地元の人は殿様道と呼んでいたみたいです。
崩れた納屋の横を通り少し行くと大歳社があり、舗装路を横切ります。舗装路を横切った所にも殿様道を説明した柱が立っています。そのまま地道を登って行くと頂上は墓地になっていて、ここが瓜生野村と吉見村との村境でした。ここから先に西に下って行く道があるはずですが、それらしい道は私有地みたいで閉鎖されていて確認出来ませんでした。
あきらめて一旦国道まで戻り、国道を迂回して峠の西側に回ってみると、「道路史跡山陽道跡」と表示があったので反対側から登ってみました。台風の後と言う事もあり、至る所で倒木とクモの巣が道を塞いでいました。途中で自転車を置いて木の枝でクモの巣を払いながら進んで行くと、道は墓地の手前にあった工業所の敷地内の倉庫の横に出ました。どうりで道が分らなかったはずです。この道を歩くなら西側から入るほうが分かりやすいでしょう。
今登って来た道をまた戻り、下り切った所で県道37号を横切り田圃のあぜ道を通って大坪川に架かった小さな橋を渡ります。橋の辺りに一里塚があったと伝えられていますが、今ではどこにあったかは分りません。草が繁った川土手の道を国道2号に向かって下って行きます。
郵便局の所で国道2号に出ます。ここから少しの間国道を走ります。旧街道は国道のすぐ横を並行していますが、今では寸断されてほとんど通れません。JR宇部駅方面からの県道と国道との交差点手前で右折し中村地区に入ります。ここには吉見市(いち)の史跡表示が立っていました。
市は古代は厚東川沿いの片河と呼ばれる地域(持世寺温泉の対岸辺り)にあり宿駅の機能も果たしていましたが、度重なる河の氾濫の為に、近世になって現在の下岡交差点近くに移住したと記録されています。
旧街道は県道37号との交差点手前で国道に戻り、交差点を過ぎた所で左に入り小山を迂回する「萱曲道」を通ります。この鬱蒼と木が繁った小山は萱曲と呼ばれ、城趾と伝えられていて、横穴式の後期古墳もあります。
どんだけ道
倒木が道を塞いでいます
どんだけ道の西側の表示
この辺に一里塚がありました
吉見市(いち)があった所
萱曲道。写真の奥の木が繁っている所に城趾と古墳があります。