台場跡
台場とは海防の為に築かれた砲台の事です。江戸末期、長州藩は外国艦隊と攘夷戦争を繰り広げ、また徳川幕府とも戦争状態にありました。
その為、山口に置かれた政事堂に近かった秋穂周辺にも海防上の重要地点として、奇兵隊などにより尻川、花香、黒潟、長浜の四ケ所に砲台が築かれました。築台は文久3年(1863)12月から元治元年(1864)2月までかかりました。
尻川湾の台場跡です。町営プール跡と墓地の間の松林付近に築かれました。秋穂町史によると166坪、砲門5門の規模で、松林前の赤土が砲台の痕跡だとされています。
尻川湾の台場前には堤防が築かれましたので、海は見えなくなりました。
堤防からの眺めです。沖に見えるのは竹島です。
長州が馬関(下関)で外国艦隊に惨敗した直後に竹島にフランス船が停泊しました。周辺の住民は荷物を担いで山中に逃げ込むなど大騒ぎになりましたが、結局外国船は座礁した船底の応急修理が終わるとすぐに立ち去ったと言う事です。
黒潟地区の台場跡です。黒潟南公民館前辺りに築かれました。73坪の規模だったと言う事です。
黒潟台場からの眺めです。幕末に長州軍の司令官として活躍した大村益次郎は、第二次長州征伐(四境戦争)の時に、「私が幕府軍なら四境から攻めると見せかけて、山口の政事堂に一番近い海岸に上陸して攻め上る。」と言ったそうです。
もし幕府軍がそのとおりに実行していたら、秋穂は火の海になっていた事でしょう。
幕府に益次郎の様な戦略家が居なくて幸運でした。