吉岡新太郎心中墓
萩藩士吉岡新太郎は鋭武隊の指令の一人で、討幕戦を終えて大阪の難波の地で見染めたのが商人の娘山村おまさでした。
おまさは菩提寺(現禅光院)に駐屯して秋穂の警備にあたっていた吉岡新太郎を慕って秋穂まで来ましたが、明治維新前の厳しい封建性のもとでは武士と商人の娘では結婚は叶えられませんでした。
又、指令の立場でありながら婦人を連れ帰り隊の規律を乱した事を深く悔いた吉岡新太郎は、おまさを泊めていた秋穂浦の宿屋でおまさを脇差しで刺し、自らも喉を突いて心中しました。明治元年六月九日の事です。
萩藩の公式記録では、吉岡新太郎は五月に除役、六月に病死した事になっています。
二人の墓は禅光院墓地にあります。秋穂の有志十六人が二人の悲恋を哀れんでこの墓と燈篭を建てました。
右が吉岡新太郎の墓、左が山村おまさの墓です。
おまさの墓の側面には「はるばると たずね秋穂の浦浪に ともに散るとは あわれなりけれ」と地元の豪商有冨猿石の句が刻まれています。
墓は二人が心中した秋穂浦の方角を向いて建っています。